学習が困難であることへの支援〜特別支援教育の現場より〜

こんにちは。教員の助川です。スポーツ大会も終わり、前期も折り返しの時期となりました。

 

さて、今日は小中学校における、特別支援教育の専門助言のお話をしたいと思います。

 

 

私は以前、地域の発達センターで勤務していたため、地域自治体の委託を受けて、小中学校の「配慮が必要な子ども」の様子を見に行き、学校の先生に、その子どもの授業参加のアドバイスを行う専門職の巡回訪問指導を行ってきました。

 

 

知的に障害がなくとも、多様な発達のアンバランスさから、授業参加が難しくなる子どもはたくさんいます。あえて障害支援というより、通常の授業内で先生ができる、授業に参加しやすくなる工夫って何でしょうか?

 

 

例えば、授業のプリント

 

 

 

 

「1」が原本のプリントです。

 

 

でも子どもによっては、

a) 字が小さくて読めない。

 

b) どの行を読んでいるか見失う。

 

c) そもそも漢字が読めない。

 

などの困難さから、内容が読み解けず、結果的には端にあるイラストへの落書きで時間を潰してしまう場合があります。

 

 

専門助言では、こうした子どもの「困り感」を先生にお伝えし、具体的な改善策を提示するよう心がけています。

 

 

例えば「2」の

a) 字を拡大したプリントを作る。

 

b) 子どもには、読むべき行が明確になるよう、定規などを当てて読むよう声かけをする。

 

c) ふりがなを振ったプリントにしてもらう

 

などです。

 

 

 

こうした工夫は単純なようでいて、クラス集団を一人で運営する先生には、個々の子どもの困り感は気づきにくい視点かもしれません。専門職が介入することによって、子どもの学校参加に多角的な視点が加わることが大切です。

 

 

また、そうした工夫は特別支援教育のみに必要なわけではありません。

 

 

下の写真は、当校の補講の一コマです。

 

 

 

 

筋肉の名前と場所を覚えるのは、学生の内、誰もが通る大変な学習の一つです。これはセロハンテープで、骨標本に肩周りの筋肉を実際についている位置に合わせて貼って学習している場面です。

 

 

個々にあった学習参加の方法、どうせ学習するなら、あなたにあった学習が良いでしょう。

 

 

あなたも工夫していますか?

最終目標は国家試験の合格!卒業生による心温まるサポート

新年度も開始から1か月がたち、新入学の学生さんもようやく学校生活に慣れてきたように思います。4年間のスタートですので、目標に向かっていいスタートを切っていただければと思います。

 

 

さて、入学がスタートであるとしたら、学生生活のゴールは卒業ということになります。しかし本校は、医療職養成の専門学校ですので、ただ単位を取って卒業するのではなく、資格を取って卒業することが目標となります。

 

 

 

 

そのためには4年次の最後に国家試験を受験しなくてはなりません。学校の対策や学生さんたちの頑張りで、幸いにも今年は100%近い合格率(昼間部は100%/夜間部は約96%)をあげることができました。理学療法士・作業療法士の合格率の全国平均は80~90%です。

 

 

そのように聞くと、かなり高い合格率で、なにやら簡単に合格できそうな気がするかもしれませんが、決してそうではありません。

 

 

受験に先立って、3~4年間の学校での勉強があり、病院や施設など臨床での実習があり、卒業相当と認められた学生さんたちが、受験勉強をしてその結果の合格率なのです。

 

 

資格取得のための実力は一朝一夕でつくものではありません。日頃の学校生活のなかで養われていくものなのです。

 

 

とはいえ、いくら勉強していても、国家試験当日は緊張するもの。勉強した知識を忘れないように、受験票や必要な物品を忘れないように、いろいろ気を使ってしまい、ほかのことには手が回らない、という人も多いようです。

 

 

学校の同窓会では以前から、昨年受験した卒業生が受験生のために昼食を差し入れ、応援をする活動をしてくれています。今年も2月末の日曜日にわざわざ手配して持ってきてくれました。

 

 

 

 

 

卒業生の皆さん、ありがとうございました。

 

 

作業療法学科夜間部 河邊

去年の自分より成長してますか?

将来なりたい理学療法士像として、患者様から信頼を得、心のケアが出来る者になりたいという言葉をよく聞く。話としては全く御尤もであるが、そのために必要なことはなんなのであろうか?

 

 

前提条件としては、自分の立場(理論)を守るためのウソ、誤魔化しであっては成立しないという事である。

 

 

科学の始まりは、多くの人がその知識を利用して幸せになる事を目標としている。したがって、データーの改変などはあってはならない。そもそも、信頼に値しないデーターを収集して、仮説は立てられないのは当然であろう。仮説は検証によってさらに深く本質に進む道筋を立ててくれることになるが、仮説が連続し続けると妄想と呼べるもので、自らの行動は迷走する。

 

 

自分を信じる事が出来ない人が患者様に信じて欲しいと言うのは傲慢であろう。自分を信じられる状況を作るために、勉強し、経験し鍛えていく事は当然であると考える。

 

 

経験の中で失敗を恐れるあまり、人の指示をばかり待っている者もいる。自分のできる範疇から出ようとしないモノもいる。自分の心・行動を狭く閉ざして、心を開いてもらえると思うのであろうか?

 

 

傷つきたくないという事で評価されることを恐れ、他者を評価し「優しい」で自分に都合の良い人を見極める。庇護される事を望み、変わることを望まない。今の自分のまま認められることを望み、未来の自分に期待していないのではないかと感じさせる事もある。縮こまる方向に働く力は、連続して続き「消極的な生き方」を作り出してしまう。自分の可能性もどんどん減少する。

 

 

人は、成した事によって評価されるのであって、その蓄積が未来に期待を抱かせる事になる。その前に、いざと言う時のために力を蓄え、備えていく。それは苦しいことかもしれないが、その苦しみを強く感じる人と、それを楽しめる人では到達度が違ってくるのは当然である。

 

 

同じものを食べたから同じ人間に成るわけではない。もっとも、楽しみや喜びは、苦しさを味わった方が濃密に感じることは事実であるが・・・。

 

 

「生きたいところで生きる」、「成りたい者になる」変化する事を恐れず、変化する事が出来るのが「生きている」につなげる為に、その努力はやりがいのあるモノなのであると認めてみよう。そして、もっと自分を信じて、もっと自分に期待して、気持ちよく、愉快な仲間と仕事や人生に乾杯の盃を上げよう。凛々しく。

 

 

 

理学療法学科総括学科長 畠山敦