作業療法学科教員・田中克一先生が語る
田中 克一先生
介護職からキャリアチェンジで作業療法士へ
後進を育成する道へと歩んだ理由
学科 | 作業療法学科専任教員 |
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専門分野 | 老年期分野 |
主な担当教科 | 日常生活活動学・地域作業療法学 |
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作業療法学科の教員である田中克一先生は、介護職からキャリアチェンジのために日リハの夜間部に入学。2004年に卒業後、施設や病院での勤務を経て大学院へ進学し、修士号を取得。さらに現場での臨床経験を積み、2020年4月から作業療法学科の教員として16年ぶりに母校に戻ってこられました。田中先生が歩んでこられた「学生時代~臨床経験~大学院への進学」の道のりから、現在の教員としての日々をご紹介します。
「介護の仕事から作業療法士を目指す」
- Q. 田中先生のヒストリーをお伺いします。田中先生は日リハの作業療法学科夜間部の卒業生ですが、入学前はどのようなお仕事をされていましたか?
- 私は介護の仕事に就いていたのですが、個人的にもこの仕事は自分の性質に合っていると感じていました。食事や入浴、レクリエーションの提供や夜勤も含め、つらいと思うことなく、むしろ楽しく仕事をすることができていました。それでも、仕事に就いて1年が過ぎる頃には、現状を変えたいと感じるようになっていたのです。具体的には「もっと成長したい」という想いが自分の中で強くなっていました。食べさせてあげること、着替えをしてあげること、お風呂の介助をすること、それらを単にこなしていくだけではなく、「もう少し上手くできるようになるにはどうしたらいいのか」や「一人でご飯を食べられるようになった方がよりおいしいだろうな」とか「もっとうまく介助するためにはどうすればいいのだろう」と考え始めていました。
当時の私には解剖学や生理学の知識といったものはなく、目の前の利用者さんに対して介護の仕事をただ闇雲にやっていただけだったのです。だからこそ「それを実現させるためには、自分がもっと勉強しなくてはいけない」という結論に達しました。
それ以外の要因もあります。率直に言うと「お給料」ですね。昇給もありましたが、10年先を見据えた場合に、このままでは生活面が厳しいだろうと。夜勤をしてその手当も含めた給与でアパートを借りてひとり暮らしをしていましたが、現状の仕事のままではやがて家族を養っていくのは大変だろうなという感覚があり、収入を上げられる仕事について真剣に考えるようになったからということもあります。 - Q. そこから田中先生が作業療法士を目指そうと思ったきっかけを教えてください。
- 私が勤務していたのは茨城県つくば市にある介護老人保健施設でした。自宅に戻るためのリハビリが目的の施設でしたので、そこで作業療法士の存在を知ったのですが、その時は「(自分の想いを叶えてくれるのは)この仕事だ!」という思いはありましたね。結果的に、そこでの仕事を続けながら、日リハの夜間部に通うという選択をしました。
職場の方が融通を利かせてくれたこともあり、15時には仕事をあがらせてもらって、そこから18時の授業開始に間に合うように学校に通っていました。所定の勤務時間に足りない時は夜勤を多めにするなど調整して、ボーナスまで出していただいたことは感謝しています。それでも、つくば市から高田馬場はどうしても通学時間が1時間半はかかってしまいます。そこで2年生になった際に引っ越しをし、職場も学校が紹介してくれた中野区の病院に移って、リハビリ助手の仕事をしながら夜間部へ通学するようになりました。高田馬場まで電車で10分という距離だったので、通学時間も一気に短縮されて予習に費やす時間も増え、さらに病院の質も高く、良い経験をさせていただきました。
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「日リハ夜間部を選んだ理由」
- Q. 他校と比較して日リハ夜間部を選ばれた決め手となったポイントは何ですか?
- 作業療法士について学ぶことができる学校の中でも、夜間部であることが前提条件でした。それを探した時に、つくば市の介護老人保健施設からすぐに通えるような学校は、当時の茨城県内にはありませんでした。そこで東京の学校の中から選ぶことにしたのですが、日リハはその時はまだ校舎が新しくて、とてもフレッシュな感じがしました。そして、先生方は「即戦力を養成する」という目的のために全力を注がれていて、やる気が伝わってきました。そのあたりがとても印象に残っています。
入試を経て、2000年に作業療法学科の夜間部に入学しました。その時の私の年齢は26歳です。夜間部ですのでクラスメイトの年齢層は幅広く、上は45歳から下は高校卒業すぐに入学した子たちもいましたね。キャリアチェンジによる学び直しにあたり、不安に感じていたことはやはり年齢です。卒業するときには30歳を迎えるわけですので、就職には苦労するかもしれないと思っていたのですが、入学時点から卒業後のビジョンもしっかり見えていたので、まずは作業療法士になるために、4年間を勉強に捧げようと思ったことを憶えています。
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「4年間での学びを振り返る」
- Q. 続いては、田中先生の日リハでの学校生活について教えていただきたいと思います。思い出に残っていることについて聞かせていただけますか?
- 他校よりも充実した実習時間を誇っている日リハですが、学生だった頃は1年の半分くらいは実習に行っていたような感覚すらあります。その中でも、当時はあった「中国研修」は印象に残っています。オリンピックが決まり、中国が今へと至る発展を遂げつつあった時代のことです。日リハの初代校長(現在は名誉校長)である二瓶隆一先生は、国立障害者リハビリテーションセンターの元病院長を務められていたのですが、1980年代から日本が北京に設立した中日友好で理学療法士や作業療法士を養成するサポートを長年に渡ってされていました。その後、日本にあるような総合的なリハビリテーションセンターを建設したいという中国側の要望を受けて「中国リハビリテーション研究センター」(中国リハ)が作られました。
その縁もあって、私たちの代が最初だと思うのですが、校長、先生方、理学療法士や作業療法士の昼間部や夜間部の有志たちと共に中国リハを訪問しました。総勢30名くらいだったと思います。「中国研修」と銘打たれていますが、向こうで学んでいる学生たちと交流することが中心でした。当時の中国は、まだかなり理学療法士や作業療法士の数が少ない状況にありましたが、中国リハの学生さんたちはとても熱心な方ばかりでした。この時の経験をはじめとして、実習では本当に色々なことを経験させていただきました。 - Q. 2年生からのリハビリ助手のアルバイトと勉強の両立についてはいかがでしたか?
- 授業で学んだことは自分なりに理解はできていたものの、それが具体性をともなっていたかと言われるとそうではありませんでした。そこで、リハビリ助手の仕事をする際に、患者さんやカルテにつなげていくというやり方で補完していました。
例えば、施術介助などを通して、学びを実践的なものとして落とし込んでいく作業です。「教科書に載っていたこの症状はこういう状態なんだ」「それぞれのステージでの動きはこうなのか」とか、現場でテキストとリアルをつなげることができました。あとは、介助の仕方もそうです。車椅子からベッドに移るなどの移乗介助一つとっても患者さん人それぞれであり、授業だけでは学べなかったところもたくさんありました。
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「さらなる学びを求めて大学院へ進学」
- Q. 日リハを卒業後、田中先生は大学院に進まれたとお聞きました。大学院に進まれたきっかけや理由はありましたか?
- 日リハを卒業後、作業療法士として介護老人保健施設やリハビリの地域クリニックでのべにして7年~8年勤務していました。実は、作業療法士の道を選んだ時点で最終的には大学院へ進学すると決めていましたし、その想いは臨床をやっていく中でもさらに必要性を強く感じるようになっていました。それは、前述のつくば市の介護老人保健施設を退職する際に、お世話になった施設の事務長に挨拶した時に言われた言葉がきっかけでした。
「アメリカでは、一般の大学を出てから大学院で作業療法士や理学療法士になるための教育を受ける必要があり、合計で6年間学ばなければならない。それくらい難易度の仕事だからこそ、これから先、日本においてそれらの職で活躍していくためには、修士号を取得しておかないと駄目だよ」この言葉が私の胸に響いたことに加えて、今は日本理学療法士協会の会長を務めている斉藤秀之先生が、当時筑波記念病院のリハビリテーション科で理学療法士として働きながら、筑波大学大学院で学ばれていたことにも背中を押されました。「作業療法士や理学療法士が修士号や博士号を取得する時代が本格的にやって来るのだろうな。だったら自分も院に行かなくちゃいけない」と、その時点で将来像を見据えることができたのです。
それに加えて、作業療法士として臨床をやっていく過程において、ある程度経験を積んでいくと、「技術や新しい実践についてもう少し勉強しなくちゃいけない」という具合に壁に直面するケースがでてきます。それを打破するために、専門誌の『作業療法ジャーナル』を読んでみても、わからない箇所や理解できないところがあったりするわけです。それは論文を読みなれていないことからくるものですが。だからこそまだまだ勉強が必要だと感じるようになりましたし、何よりも作業療法はもっとエビデンスを構築していかないと駄目だと強く思ったことも院へ進学した理由です。
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「日リハへの着任から現在を振り返って」
- Q. そして、田中先生は2020年4月から日リハに教員として着任されました。現場での臨床や研究を経て、教育に携わろうと思われたきっかけを教えてください。
- 私自身の中で「ある程度やりたいことはやった」という感じがありました。介護老人保健施設をはじめ、外来や訪問のリハビリも経験しました。そして、院に進みミラーセラピーの研究を行い、学会でも発表をしました。そして、勤務先では実習生も受け入れていたので教育についても少しはやっていたのですが、「これからは臨床ではなく、もう少し教育に力を入れていきたいな」と思い、日リハの教員として学校に戻ってくることを決めた次第です。
日リハの教員になることは、現在学校の相談役をされている大西麓子先生に相談したことがきっかけになりました。学生時代に大西先生には4年間授業をしていただいて、さらに研修で一緒に中国にも行きました。そこで交流が深まり、卒業後もなにかとお世話になっていました。大西先生に日リハが教員を募集していないかを訊いてみたところ、「履歴書を送ってほしい」と言われ、最終的に採用していただくことになりました。
他にも、作業療法学科の夜間学部長である松生容一先生は、私が実習に行った時のスーパーバイザーの先生で、卒業後もつながりが続き、実習生の受け入れの際には松生先生が私の施設に来ていただいたりするなど、そういう縁というものが卒業後もずっと続いていたということもあります。 - Q. 一方で、田中先生の教員生活は、コロナ禍の真っただ中でスタートするという特殊な事情のタイミングでもありました。着任から現在に至るまでの怒濤の日々を振り返ってみて、どのように感じてらっしゃいますか?
- 現在、私は3年生の担任を務めています。受け持っているクラスの生徒たちが入学したタイミングが、まさに日本で新型コロナウイルスの蔓延が本格化していた時期でした。初年度は副担任を務めながら授業を行っていたのですが、リモートでの授業という選択肢しかなかったこともあり、そもそも生徒たちに会うことすら叶いませんでした。そのため、生徒の顔と名前が一致しない、それぞれがどのような性格なのか、どんなキャリアや経験を積んできたのかもつかめないという状況が、対面授業が再開する10月まで続きました。教師として「学生との関係性を構築する」という点においても、上々の滑り出しというわけにはいかなかったのも事実です。
さらに、私自身「授業をする」ということすら初めての経験だったこともあり、それをいきなりリモートで行わなくてはいけないという状況でした。毎回、授業の度に「これで良かったのかな?」という思いがついてまわりましたし、やっぱりリモート授業の場合は肝心の生徒からの反応もよくわからないことが多かったです。Wi-fiなどの通信制限の問題もあって、最初に出欠を取ったあと、授業に入ると画面をオフにしている学生も多くて、画面を通してのリアクションも見えてこなかったことは難しい点の一つでした。
授業後に「わからなかった箇所はどういうところか」などGoogleフォームを通じたフィードバックは書いてもらっていましたが。それでも、1年生の終わりになる頃には、クラスのみんなの顔と名前と性格を捉えられるようになりました。同時に、その頃には対面授業が増えたこともあり、(従来よりもかなり遅れたものの)学生同士による交流ができるようになり、つながりが生まれ、クラスの輪(和)も徐々にできてきたと感じるようになりました。彼ら彼女らが3年生になった現在は、コロナ禍による影響を受けてきたとは思えないくらいの結びつきを感じています。3年生はいよいよ11月から長期評価実習がスタートしますので、クラスのみんなが充実した実習をおくることができるように、私もサポートしていきたいと思います。
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「作業療法士を目指し、日リハの門をくぐる人に向けたアドバイス」
- Q. 最後に、これから作業療法士を目指す方や、日リハの夜間部を検討される方々へ向けたメッセージをお願いします。
- 作業療法士は人の健康や幸福に寄与できる、とてもやりがいのある仕事であり、将来的にAI(人工知能)がどんなに発展してもなくならない仕事の一つと言われています。作業療法士を目指す方は是非学校説明会に足を運んでみてください。
そして、現在社会人として働いている方でキャリアチェンジを考えていらっしゃるという方へ。私が日リハ夜間部に入学した時は26歳でした。社会人をしていたとはいえ決して安くはない学費が必要になりますし、夜間部の場合は仕事をしながら勉強をする必要があり、どうしても時間が足りないという事態に直面することもありましたが、今振り返ってみて思うのは「当時の私の選択は間違ってなかった」ということですね。あの時の決断に加えて、学生時代に出会った人たちとのつながりによって、今の自分というものができあがり、教員としての生活があると言っても決して過言ではありません。
そんな私から伝えられるメッセージがあるとすれば、「これを読んでくださっているあなたの中にビジョンや見通しがあり、トライする気持ちがあるのであれば、ぜひ頑張っていただきたい」ということです。そういう方々を自分のできる範囲で応援していきたいと思っています。